cd

•2008年 6月19日 (木) • 8件のコメント

CDがコンパクトディスクのイニシャルだなんて事を忘れて久しい。CDというメディアが登場して初めてその音を聞いた時、今までずっと慣れ親しんで来た「バチ!ザーシーーー…」というレコード特有のノイズがないままいきなり何の前触れもなく大音響と共に一曲目が始まってひっくり返ったのを今でも鮮明に覚えている。
「バチ!ザーシーーー…」は音楽会でいうと指揮者が出て来て一通りの拍手が終わってから音楽が始まるまでの、さあ来るぞ来るぞ〜っというあの短い静寂に非常に似ている。それが無くなったのだからどうも最初はタイミングが合なかった。ステレオセットの真ん中に陣取るように座って、さあこれから30分間は誰にも邪魔されず音楽を聴くぞ、というリスニングモードに切り替えるタイミングである。
 
丁寧にジャケットから出して埃を取るとか、レコードがすり減るまで聴くとか、すり減るのがイヤだから保存用にもう一枚買うとか、音楽を聴くまでの雑多なプロセスがコンパクトで音の良いCDに取って代わったころから音楽を大切に聴く気持ちが薄れていったような気がしてならない。音楽のある所に人間が移動していたのにいつの間にか人間の移動に音楽がペットのようについて来るようになった。ある一定以上の音量で空気を介して聴いていたものが鼓膜から数cmの所からヘッドフォーンでプレイするメディアに変わってしまった。A/B面も無く、曲の順番も無くなった。どう考えてもCDは「コンパクトで音の良い」以外取り柄がないように思えて仕方ない。しかも我が家のように何千枚も壁一面にCDがあるともはやコンパクトとも言えない。その音が良いはずのCDを圧縮データ化してわざわざ悪い音にしてiPodとヘッドフォーンで聴いているのだから現代人の音楽を聴く耳は明らかに退化していると言わざるを得ない。
 
…と老人の小言のようなことを書いても仕方がないので先に進もう。CDの直径は12cmだ。ソニーと共にCDを共同開発したオランダのフィリップスは当初自社が開発したカセットテープの対角線と同じ11.5cm、60分の収録時間を推していたが、カラヤンが「1951年のフルトヴェングラー指揮のベートーベンの交響曲第九番(晴れたる青空〜のあの第九です)を収録できる長さにして欲しい」と提案したために12cm、74分収録時間になったという逸話がある。それ以降のDVDなどのディスクメディアが全てこの12cmになった事を考えると歴史的決定だったと言える。
 
12cmの円を書く時に非常に便利に出来ているし、ワイングラスから大きめのマグカップまで幅広く対応できるコースターとしても利用価値大だ。我が家では焼き損ないのCDRやけしからんデキのCDは全てコースターとして第二の人生を送ってもらうことにしている。
しかし以前日本の某業界人から「売れないCDは産業廃棄物ということで静岡の山中にこっそり不法投棄してます」などという話を聞かされると、音が悪くてもオンラインでメディアフリーの音楽配信のほうが世の為人の為地球の為なのかな…と思う今日このごろである。
 
– over –
 
次回は美味しいものネタ。

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jigsaw puzzle

•2008年 6月16日 (月) • 6件のコメント

ある日彼氏のところに彼女から電話があった。
 
  「今晩仕事帰りにちょっと寄ってもらえない?」
 
  「どうしたの?」
 
  「ものすごいパズルがあるんだけど難しくて全然判らないのよ。あなたジグソーパズル
   が得意だったでしょ?」
 
  「まあね。たいがいの物は出来るけど。完成品の写真が箱に描かれているだろ?一体ど
   んな図柄なんだい?」
 
  「虎の絵よ」
 
  「わかった。今晩寄るよ」
 

その晩彼氏は早く仕事を切り上げると約束通り彼女の家に立ち寄った。そこでリビングの床に箱の中身をぶちまけて途方に暮れている彼女を発見した。 
 
  「凄いことになってるな。どれ箱の絵を見せてごらん」

 
彼氏は箱に描かれた虎の絵と床中に散乱しているピースを二度、三度と眺めてから彼女に向かって宣言した。 
 
  「まず最初に、ぼくがどんなに頑張ってもこの虎の絵のようには完成出来ないよ」
 
その言葉を聞いて今にもヒステリーを起こしそうになっている彼女を制して彼氏は落ち着いた声で言った。
 
  「取りあえずここはお茶でも飲んで気を鎮めて。そして少し気分が落ち着いたらこの散
   乱したコーンフレークを箱に戻しなさい」
  
 

 

 

 
 
 
 
 

 
– over –
 
次回は音楽ネタ。

honey

•2008年 6月12日 (木) • 6件のコメント

蜂蜜は美味しい。森の熊さんの様にビンごとペロペロ舐める(飲む?)だけで幸せになれる。こんな気分にさせてくれる食べ物は滅多にないのではないかと思う。何かヤバい成分でも入っているのではなかろうかと疑うほどだ。以前のブログでメイプルシロップについて書いたが king of 甘露はやはり蜂蜜だ。
 
人間と蜂蜜の歴史は長い。約一万年前の壁画にも蜂蜜採取の様子が描かれているしエジプトのピラミッドの埋葬品からも蜂蜜が出て来ている。ちなみにエジプトは漢字で「埃及」と書くらしい。当時の人間が養蜂をしていたとは思えないので蜂蜜を美味しそうに舐める熊さんを見て真似してみた、というあたりが実情だろう。
 
一般的にはいつ買ったか定かでないビン詰め又は熊さんシェイプの容器に入った蜂蜜が調理料棚や冷蔵庫に1つポツンとあって、いざ使おうとすると結晶化していて使えません、賞味期限も切れてそうだし捨てちゃいましょう、というのが良くあるシナリオだと想像される。ああもったいない。。。蜂蜜というのは腐らないのである。常温で何年置こうが蜂蜜の持つ強い防腐効果と殆ど水分のない過酷な環境が相まって雑菌が生きてはいけないのだ。だから平気でピラミッドから蜂蜜が出てくるわけである。
しかし、だからと言って無菌な訳ではない。昆虫を介して自然に生成されるものだからボツリヌス菌等を含むこともある。一般には問題のないレベルだが消化器官の発達していない乳児には危険が伴うためにアメリカでも日本でも一歳未満の乳児に与えてはならないと警告されている。
 
そもそもの蜂蜜との出会いはアメリカに来てからだった。こちらのスーパーには当時から多くの種類の蜂蜜が売っていた。蜂蜜といえばアカシアかクローバー、あとは殆ど無記名という日本のマーケットからは想像出来ない豊富さで、それぞれを味見したくなったのが運の尽き。そのまま蜂蜜地獄へまっしぐらである。写真でも判るように常時10種類近くの蜂蜜を我が家では取り揃えている。個人的にはかなりアクの強い、日本ではあまり人気のないものが好みのようだ。ソバ、クリ、ボダイジュ、マツ、ガリグなどの蜂蜜だ。特にコーヒーにクリ蜂蜜、ゴルゴンゾーラとソバ蜂蜜でピザ、納豆にガリグなど他人に言うとかなりの確率で顔をしかめられるコンビネーションで蜂蜜を楽しんでいる。
 
ここ数年日本でも蜂蜜専門店が流行り始めてかなり気軽に本格的な蜂蜜をゲットすることが出来るようになった。ここでは試食の出来るお気に入り蜂蜜専門店を3つ紹介しておこう。どのお店でも上質な蜂蜜が手に入る。きっとお気に入りの一品が見つかるはずだ。
 
ラ・メゾン・ド・ミエール・ナミキ
お台場のヴィーナスフォート内にある専門店でテイスティングバーがある。好みを伝えればいろいろガイドしつつ美味しい蜂蜜を紹介してくれる。ちょっと割高だが小さいビンでも購入できるのでいろいろ試していただきたい。
 
ラベイユ
渋谷の東急東横、東京の丸ビルなどにもあるが是非荻窪の本店に行ってみてほしい。名古屋、京都、大阪、福岡にもある。30から40種類はいつも常備されていて大きなボトルから小ビンまであるのでついついいろんな種類を買ってしまって日本に帰る度に散財する原因となるお店である。
 
薬蜜本舗
横浜中華街内にある中国産のウイキョウなど珍しい植物をベースにした高質な蜂蜜が手に入る。その他のヨーロッパ産を主とするお店とは一線を画すセレクションで意外な味の蜂蜜に会うことができる。
 
ここの所のヘルシーブームでやれなにが体に良いだナンダカンダと喧しい。蜂蜜もご他聞に漏れず健康に絡めていろいろ言われているようだがそれらを紹介するのは私のブログの本意ではない。私自身そんなこと一切考えずに毎日毎晩熊さんのごとくビンごと indulge しているのである。
 
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次回は軽ネタ。

discarding the frame : mark tansey

•2008年 6月09日 (月) • 7件のコメント

マーク・タンセイ (mark tansey) という画家の作品を取り上げてみたいと思う。1949年生まれのアメリカ人アーティストである。google などで検索してみるとお判りになると思うが彼の作品の一番の特徴はモノクロ写真の様な作風だ。一瞬デッサン用チョークかなにかで描かれているようにも見えるが殆どの彼の作品は油絵である。
 
その中でも ”discarding the frame” という絵を私は大変気に入っている。初めてお目にかかったのはまだ学生だった頃、通称「ボストン美術館」と呼ばれる museum of fine arts, bostonでアートのクラスがあった時にたまたま見掛けたのがきっかけでそれ以来展示が終わるまで何度も通い詰めた記憶がある。
 

 
実際の絵はかなり大きいものでモノクロながら少し緑青がかったトーンが異様な冷たさを醸し出している。洞窟のなかに落ちていく滝、その滝の上に二人の人間がいて背後から日が射している。そして二人は絵画用の大きな額縁をエイヤ!っとばかりその洞窟の中に投げ込んでいる構図だ。
  
額縁を投げ込むというのは象徴的だ。既成の概念、枠組みをこのアーティスト(と勝手に私が思っている)の二人は自信をもって捨て去ろうとしている。背後の日光はその自信の表れだろう。その枠組みから脱却しようとする姿勢、なんとか既成のものを破壊しようとする勇気は音楽を生業とする私にとっても非常によくわかる心情だ。またもしかしたらこの枠組みは社会一般のことかもしれない。世の中の通念をぶち壊してより「個」になろうとするアーティストの本能みたいなものを示しているのかもしれない。ところがところが… 本人達は大自信をもって捨て去ったつもりの額縁の陰の中に自分たちが投影されてしまい、結局その枠組みから逃れられないでいる。その投影の原因が自らの自信なのだ。
 
実際ご本人がどんなコンセプトでこの作品を描いているかは知る由もない。しかし音楽の勉強中だった自分にはこの絵から導き出される芸術に対する解釈は実に衝撃的だった。本人は何万キロも飛んだつもりだったのにお釈迦様の指と指の間だった、みたいな孫悟空の気分である。

決して有名でもない mark tansey とその作品だが、私はこの絵の出会えて幸せだなと思える。自分を見失った時に recover するための小道具の1つとして今でも愛用している個人的名画の1つである。
 
-over-
 
次回は甘いネタ

uniqueness of baseball

•2008年 6月05日 (木) • 9件のコメント

私はスポーツというとまず野球しか観ない。どうも他のスポーツでは興味が持続しないのだ。さてこの野球、ご存知の通り日本でもアメリカでも人気があり日常に深く入り込んでいるのでついつい特別な注意もせず観戦してしまうのだが、野球を知らない人から見るとかなり特殊な部類のスポーツのようだ。思いつくままにその特殊性を挙げてみよう。
  
1)監督、コーチが背番号入のユニフォームを着ている。私はサッカーやバスケのように監督が背広を着て選手と一緒にフィールドに居るという光景にどうも違和感を覚える。ちっとも「ユニ」な「フォーム」になってないじゃないか、という感触だ。初期の野球では選手と監督を兼任することが多かったらしく、現在のような分業性になっても当時の伝統を引き継いでいるようで MLB では監督とコーチの背番号付きユニフォームの着用はルールとして明文化されている。
  
2)時間制限がない。完全にないかといえばウソになるがその他の四大スポーツ(バスケットボール、アメリカン・フットボール、アイスホッケー、サッカー)のようなプレーの制限時間がない。だから勝っている側が時間つぶしのためにパス回しをするなどという怠慢プレーが起きないのである。この終わってみないと判らない野球の仕組みがサヨナラ満塁ホームランなどの神業的大逆転を演出する要素の1つであろう。
  
3)攻撃側だけ点が入る。当たり前のようだがその他の四大スポーツは守備中の得点が可能だ。
  
4)球場の形がバラバラ。地域ごとにサッカー場の形が違うとかどこそこのテニスコートはウィンブルドンより狭いとか、そういうことはあり得ないが野球場は内野のダイアモンドのサイズと外野の最低限のサイズの規定はあるが球場全体のシェイプに関してなかなり自由である。そこで各チームはその球場にあったチーム編成をすることが重要となってくる。ヤンキースタジアムのようにライトにホームランの出やすい球場を本拠地とするチームはおのずと左のパワーヒッターを集める傾向にあるし、より自分のプレースタイルにあった球場を持つチームに移籍する選手もいる。
  
5)3割の成功で褒められる。10回ボックスに立ってわずか3回ヒットを打つだけで好選手である。10回中7回も失敗して良いスポーツなんてほかにあるだろうか?
  
6)スター選手が活躍する必要がない。例えばマイケル・ジョーダンが一度もバスケットボールに触る事なくブルズは勝てるだろうか?野球ならジーターが4打席4三振で守備中一度もショートに球が飛んで来なくてもヤンキースは勝てる。
  
7)機会均等。野球はどんなに力の差のあるチームが対戦しても一人3ストライクまで、1回3アウトまで、1試合9回までと両チームに均等な機会が与えられている。MLB オールスターズと少年草野球が対戦しても同じである。ではサッカーのワールドカップイングランド代表と少年サッカーチームが対戦したらどうなるか?とても少年たちはボールに触らせて貰えまい。つまり機会均等ではないのである。
   
8)ボールが全てではない。上記の四大スポーツをナタで割ったような言い方をすればボールの奪い合いである。テニスもバレーボールもボールが中心にある。しかし野球はボールは単にゲームの推進パーツであって得点するのは人間だ。だから観戦中もボールの行方以上に走者の行動を注視する必要がある。
  
9)帽子を被る。意外と帽子を被ってするスポーツ、特にチームスポーツにはない。雨の時や太陽が逆光の時などに実際被ってみるとベースボールキャップの機能性の高さに今更ながら驚く。やはり野球の動きにはベースボールキャップはなくてはならないものだ。
  
…と挙げてみたが最後の10個目は是非これを読んでいるあなたに考えていただきたい。まだまだあるはずだ!
 
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次回はアートネタ

artificial intelligence

•2008年 6月02日 (月) • 1件のコメント

最近友人のD君とお茶をする機会があった。同じバークリー出身で彼自身も知る人ぞ知るスーパーギタリストである。

現在D君は音楽をサイドラインに置き個人投資家として日米の株の動向に注視する毎日を送っている。その彼が唐突に「最近 artificial intelligent のプログラムに凝ってるんです」と言い出したではないか。artificial intelligent = a.i. すなわち人工知能である。人工知能をプログラムする?投資と人工知能の関連性についてしばらく考え込んでしまった。

話を聞いてみると要はD君の投資家としての特徴を人工知能で再現しようという試みらしい。例えば普段からどんな銘柄に注目しているか、株価の動きがどうなったら買いでどうなれば売りの指標となるのか、どの業界の株のどういう動きがどの株の動きと相関性があるのかなど、D君の経験則や投資のセオリーなどを1つ1つプログラムして自分の分身のように株の売買をする人工知能を育てよう、という神をも恐れぬ大作戦なのである。株の売買の前にD君にお伺いを立てるとか何ドル以上はつぎ込まないとか、そういうリミッターも勿論組むことが出来る。まずは単純なモデルを組み、過去の市場データでテストドライブさせることでそのモデルの有効性を確認して改良を加えたり更なる指標を足したりしてお利口さんに育てていくのだろう。「知能」と言っている以上、自らの経験を元に自らの法則を修正してくるかもしれない。
 
そんな話を聞きながらへ〜〜っとアホのように感心していたのだが、よく考えるといろいろアイディアの湧く話だ。まず自分自身を分析するという点でかなり深いものがある。自分を見つめ直す方法というのはカウンセラーにかかったり文章を書いてみたりといろいろあるが、人工知能を使ってみるというのも面白そうだ。実際に自分で作曲した曲のメロディやアレンジなどを改めて聞いてみると独特な嗜好パターンや逆にそのパターンから抜け出す時の手法なども見えてくる。これを上手く人工知能上で再現すれば自分の代わりにメロディを創造して、こんなのいかがですか?と提案してくる作曲知能が出来るかもしれない。また小さい子供にプログラミングを教えて自分で気付いた自分自身の特徴をどんどんプログラムに加えさせて行くと、どんな人工知能が生まれるのか大変興味深い。
 
D君の目標は100%手放しでなくても、実際の売買の助言をするぐらいまでにはその人工知能レベルを持って行きたいようだ。その内「2001年宇宙の旅」のHAL9000ではないがD君の人工知能が巨額の富を生み出すマシンと化し、だんだんとご主人様の存在が疎ましくなってきて命を狙われたりするのではないかと心配になってくる。まあそんな心配をする前に人間自身がもっとお利口さんになる方法を考えた方が早いかもしれないが。 

Ray and Maria Stata Center

              Computer Science and Artificial Intelligence Laboratory at MIT in Boston
  
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次回はスポーツネタ

picasso

•2008年 5月29日 (木) • 4件のコメント

53rd stのMoMA 近代美術館に二人連れのオバさんが観賞に来ていた。

 

「やっぱりMoMAのなかでもピカソの作品は別格ね。最高だわ!」

「あらそう? なんか私にはただのメチャクチャな絵にしか見えないけど…」

「あなたは見る目がないわね。私みたいにアートの判る人間には判るのよ」

「そういうものかしらねえ…」

「見てご覧なさい。これなんて混沌としていて最高じゃない?」

 

すると先ほどから部屋の隅で会話を聞いていた館内スタッフが二人のもとへやってきた。

 

「お客様、そちらはピカソの作品ではございません。鏡でございます」

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次回は雑談ネタ